本多静六「私の生活流儀」の内容と要約|ケチと倹約の違い

以前、本多静六さんの「私の財産告白」を読んでとても面白かったので、「私の生活流儀」も読んでみました。

結果、こちらも素晴らしい本でしたので、ご紹介したいと思います。



【偉大な学者でありながら、巨億の富を築いた哲人が説く、健康・家庭円満・利殖の秘訣】

一介の学者でありながら“伝説の億万長者”となり、処世の達人としても広く尊敬を集めた本多静六(1866-1952)が、その最晩年に、自らの人生哲学を後世に伝えるべく書いたのが『私の生活流儀』です。
名著『私の財産告白』の陰に隠れがちな本書ですが、健康長寿と日常の小さな心掛けがあってこそ、豊かで幸福な人生を送ることができる、という本多博士の考え方は、生きる指針を見失いがちな現代人にこそ、もっとも必要なメッセージとなっています。

「どんな小さな理想でもよろしい、それがひとたび実現すれば、もはやそれはその人の人生の現実となる。しかも、その現実を土台として、第二のより高き理想が生まれてくる」
「世の中で、一番ありふれて、一番真剣なのが金儲けの道である。不正でない方法と努力で金儲けに成功できるものは、どこかに常人の及ばないエラさがあると私は信ずる」
――本書には、こうした本多哲学のエッセンスが随所に溢れています。家庭で、職場で、周囲にも勧めたくなる珠玉の一冊。博士を敬愛する渡部昇一氏の解説も熱が入っています。

「私の財産告白」では、主に蓄財の方法や心構え、処世術が書かれていました。
この「私の生活流儀」は、まさに本多静六が何を考え、どのように生活してきたかが書かれています。

特に印象に残った部分を、抜粋してご紹介したいと思います。

本田家式買物法

本多静六さんは、大の倹約家でした。
ちなみに、ケチと倹約は全く違います。

倹約とは、無駄遣いをしないこと。
本多さんは大富豪でありながらも一切の無駄遣いをせず、自分は質素に暮らし、晩年にはその財産を匿名で全て寄付した事でも有名です。

そんな本多さんと奥さんの象徴的なエピソードをご紹介します。

p.90
私の家では、衣服などについて、いつも”つもり”買いの”つもり”貯金というのをやった。すなわち、呉服屋のショウ・ウィンドウを外から眺めさせて、気に入った柄、気に入った物はいつでも望み通り買うことに賛成した。賛成はするが、それを即座に持ち帰るのではない。ただ買った”つもり”(気分)にさせるだけだ。そうして、品物はそのままその店に預けておくことにし、ぜひその品物がなくてはならなくなるまで、別にその代金同額を銀行に預けさせておくのである。すると、いつしか欲しいと思ったものも欲しくなくなり、必要なものも必要でなくなって、貯金だけがチャンとあとに残るという仕組みなのである。

 さて、この私の考え方は、食物や娯楽品などでも同じことで、おいしそうなお菓子、珍しい果物、そんなものは、飾り窓の硝子越しに、いくらでも食いたいだけ食べる。御馳走してやる。そうして、その都度、食ったつもり、馳走してやったつもりの”つもり”貯金となるのだから、イザ何か必要なものをといえば、今度はいつも本当に買うことも、買ってやることもできたのである。
こんな調子だから、全く私どもほど街に出てゼイタクな買物をやったものはないことになる。ちょっと渋谷や青山通りへ出ても、お菓子屋から花屋である。花屋の次は洋品屋である。

「食べ物はもうたくさんですから、植木をみましょう」

と家内がうながす。ひと渡り眺めて、秋海棠の一鉢が気に入ったという。例により、

「欲しけりゃ買うさ」

と答える。そこはあいにくと硝子越しでなく、店先の棚に並べてあったので、家内が手をのばせばすぐ持ち上げられる。

「オイオイ、買うは買っても、気分で買うのだぞ、それを持ち帰って枯らしてしまうより、この店に預けておけば水も忘れずやってくれるし、枯葉もいちいちのぞいてくれる。みたければいつでもここまで散歩に来ればいいじゃないか」

幸いに店の人がかたわらにいなかったので、二人は笑いながら次に移るというわけ。それでみな愉快で、幸福なんだから有難い次第だ。ー花屋さんにはちょっと気の毒かナ。

なんてほっこりして、可愛いエピソードでしょうか。
それでいて凄く示唆に富んでいます。

まず、2人は買物に行って、結局何も買っていないわけですが、”愉快で幸福”で、ちゃっかり貯金も出来ているわけです。
その時は欲しいと思っても、買っても全然使わなかったり、時間が経って、欲しい気持ちがなくなったという経験は誰でもあると思います。
この方法はそういう点でも凄く理にかなっていますよね。

合理的で、虚礼を嫌う本多静六

”昔からそうだから”とか、”みんなやっているから”という事で、不合理を感じつつやっていることって多いですよね。
本多さんは、そういった不合理よりも実際を重んじていました。

p.97
ことに日本人の悪い癖は、一年に幾人ともない来客のために、客間を一番いい場所において、自分たちの三百六十五日使用する居間や、寝室、台所などを、不衛生な面白くないところにこしらえて平気でいる。
いったい住宅はあくまでも住まう人のためのもので、接客業者のように客をもてなすのが目的ではない。
自分の家はあくまでも自分たちのものだから、居間や台所とかは、何よりも一番いい場所を威張って占領するのがよろしいのだ。
p.118
今日の社会生活には、大敗戦を経てなお、訪問、接客、贈答といったことがなかなか煩雑で、これにはだれも相当頭を悩まされる。
頭を悩ますばかりでない。金と時間の空費を余儀なくさせられている。

早い話が、社交生活の眼目は、相互の実意を通わせ合うにある。
先方に愉快を感ぜしめ、迷惑をかけないことが第一であるはずだ。

それなのに、実際には、むしろ反対な結果になるものが、きわめて多い。
というのは、得てして、人間社会では儀礼が虚礼となり、ギリがムリとなり、ツキアイがツツキアイになってしまいやすいからである。

そこで、私どもの社交、私どもの流儀にも一工夫あってしかるべきわけ。
一切はその精神を主にし、形式は従に、ときにはこれを無視して精神を生かすことにするのである。

どうでしょうか。
本多さんほどの人物にこうハッキリと言ってもらえると、スカッとしますね。
本来は気持ちを伝える為に行ったことが、やがて形として残り、今はその形ばかり気にしている事って多いと思います。

家内平和の秘訣、ジャン憲法

時には夫婦で意見が食い違うことがあります。
別の人間ですから、それは当たり前です。

大事なのは、そういう時にどのように解決するのか。
ささいな問題から、解決方法を誤ったばかりに大きな溝になってしまう事もあると思います。

本多静六さんは、ジャン憲法という方法で解決していました。

p.113
私の家には、古くから「ジャン憲法」というのがある。

(略)

それは、夫婦間もしくは家族たちのあいだで、何か意見の一致をみないことがあると、お互いに二度までは意見を主張をし合うが、それでも決まらぬとなると、三度目はいつでもジャンケンで決めることになっているのである。
ジャン、ケン、ポン、すなわち「ジャン憲法」である。
もちろん、この場合、負けたほうが勝ったほうの意見に従わねばならぬのだ。

(略)

この世の中は鏡のようなものである。
だから、自分が額に八の字を寄せて向かえば、世の中という鏡もまた自分に八の字を寄せて睨みかえす。

人間はまったく気の持ちよう一つである。
何事にもみなあまりに深刻に考え過ぎないことだ。
それかといって、もちろん、何から何までエヘラエヘラといった態度で過ごすのも軽薄だ。
真剣に考え、真剣に立ち向かわなければならぬ事柄もはなはだ多い。
しかし、なんでもないことに思い過ごしをするのはつまらぬ。
虚心坦懐、あっさり片付けてゆくに限る。

われわれが常に心を快活にたもち、いつもニコニコ生活をつづけるには、遠慮、痩せ我慢、負け惜しみ、虚偽、それにまた、きまりがわるいとか億劫だとかいうようなことを一切追放してかからなければならない。
なんでも、子供のように無邪気になることである。

それにはまず、「ジャン憲法」の施行が一番いい。
わが「ジャン憲法」のねらいは、すなわち、つまらぬ日常生活の邪気、慢気、争気の放棄にあるのである。

ジャン憲法、凄く平和な憲法ですね。
ほとんどの言い争いは、冷静になると本当にささいな事だと思います。
仮に凄く頭にきていたとしても、ジャンケンしている姿を俯瞰でみたらつい笑ってしまいそうです。

本多静六の健康

本多さんは、年を取ってからも健康を保っていました。
この「私の生活流儀」でも、健康の秘訣について書かれています。

p.152
私はいつでも、眠くならなければ眠ろうとしない。
十分に疲れるまで、眠くなるまで働きつづけて、その上、全く安心ーー何もかもカミサマに返上した気持ちになって、毎日毎夜、横になるのである。
そうすると、雑念も妄想もなく、床に入るとすぐグッスリ深い眠りに入れるのである。

しかし、たまには、いろいろとものを考えつづけて眠りにつけないこともある。
そんな場合は「おや、まだ眠る時間じゃないのだな」と思って、枕元の手帳を引きよせ、思い浮かぶことをあれこれと書きつける。
つまり勉強の床上延長である。
それがながくなっても、「いやまだ眠らなくてもいいんだ」と頑張る。
頑張って頑張りつづけているうちに、いつしか本当に眠くなって眠るのであるから、これまたやはり熟睡ということになる。

よく人は不眠症になって困るというが、それは眠れないのにムリに眠ろうとするからで、眠れなかったら、それだけ儲けたつもりで、勉強に頑張れば、自然に生理的な熟睡がとりもどせる。
すでに、自然な、生理的熟睡であるからには、四時間もすれば自然にこころよく目が覚める。
覚めたところでウジウジしないで、思い切ってパッと飛び起きることだ。

こんなぐあいで、熟睡が活動の基となり、活動がまた熟睡の因となって、善循環がどこまでもつづく。
これがもし反対になってしまうと、熟睡できぬからなまける、なまけるから熟睡できぬというわけで、悪循環がどこまでもつづく。
そうなったら、この善悪の転換がなかなか困難である。不眠症はいよいよ不眠症に陥り、なまけ者はますますなまけ者になる。

そんな場合は、何か思い切った心機一転法を講ずることだ。
旅行でもよい、スポーツでもよい、家中を引っくり返した大掃除でもいい、ひとふんばりして、満身の惰気一掃をこころみることである。

いずれにしても、よく眠り、深く眠るためには、いたずらに時間の多きを要しない。
前述のような訳合いで、私はいつも短時間の就寝で十分事足りてきたのである。
熟睡の秘訣といったところで、すこぶる簡単な話である。

p.159
衣食住については、粗衣粗食の簡便主義、あとは何事にも明るい方面ばかりをみて、くだらぬ心配をせぬことだ。
いかに金ができようと、いかに生活が楽になろうと、楽隠居などとはもってのほかで、息の根がとまらぬうちは、どんなことがあろうと、なんでもいい、うんと働き抜くことだ。

人間は老衰するから働けぬのではなくて、働かぬから老衰するのである。
耄碌(もうろく)なんていうのも、働きをやめてとくに志願しさえしなければ、決して向こうから押し強くやってきたりするものではない。

ただし、うんと働き抜くといっても、その働きには法がある。
無理は一切禁物のこと。みなそれぞれ分に応じての考慮が払われなければならぬ。

体ばかり働かせても駄目、頭だけ働かせても駄目、そこは私のいう働学(労働と学問)併進で、両方を適度にまぜ合わせなければいけない。
体ばかり働かせていたのでは頭が先に参り、また、頭ばかり働かせていては体が先に参る。
人間の健康長寿には、この両全が最も大切なのである。

いかがでしたでしょうか。
本多さんが亡くなって半世紀以上経った現在でも、とても参考になる内容ばかりです。
まだまだ面白い内容は沢山あるので、是非読んでみて下さいね。

関連記事:本多静六「私の財産告白」を読んで|貯金と投資の極意

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